医療者は、生物医学に基づいた「疾患」しか見えておらず、「治療」に夢中で、患者の人生を引き受けるような度量を持っていない。
医療者は、解剖学のまなざしで人体を分析し、病理学のレンズで人間の正常と異常の間に線を引く。
それはそれで、真実の一部だとは思います。
では、生物医学に携わる医療者たちは、みな能面を付けて一律に、数値化された・解剖学的な身体だけに向き合っているのでしょうか。
生物医学的に人間を捉える技を磨き上げつつも、自分自身の人生経験によって形成された価値観だとか、今日の体調だとか、天気とか、政治のこととか、パートナーと喧嘩したとか、いろんなことを全部しょい込みながら、私たち医療者は今日も現場に立っています。
だから時に、モヤモヤする。
だって、一つのレンズで見ると正解でも、別のレンズで見ると違ったりするから。
だって、患者さんの人生の物語をわきに置くのと同時に、自分の人生の物語もわきに置かざるを得ないから。
そういうモヤモヤを言語化したいとき、人文学・社会科学の学びは支えになってくれます。
「自分自身が至らないせいで」と思っていたことを、構造上の問題として語りなおしうることに気づく。
生物医学を信奉するばかりではない自分のことを肯定し、近代性への違和感の急所を突き止めることができる。
自分自身の物語、患者さんの物語を、歴史や地球規模の視点でとらえてみることで、全く違う物語が編まれ始める。
いまもまだ引っ掛かり続けている「あの時の自分」と想像の中で対話することもできる。
そうして言葉になったものは、ほかの人にも読まれることができます。
モヤモヤ、は、批評の最初の一歩。
医療者がその次の「二歩目」を踏み出すために、リベラルアーツゼミと読書会を開催してきました。ゼミでは、人類学と社会学で議論されてきたことを受動的に勉強するだけでなく、「書く」こともとても大事にしてきました。
いひょう、医療を批評する。
というと、大それたことを始めようとしている感じがしますが、実際には、自分たちの実感を言葉にする、そしてそれを分析して文章にする、たったそれだけの営みです。
いひょう、意表を突く。
手あかのついた、うすっぺらい言葉は載せません。
書く人自身も思いがけないところにたどり着くような、読む人はさらにもっとびっくりするような、
そんな文章を載せるための雑誌です。
